top of page
小田原城
城址公園の花菖蒲とあじさい

お店の周辺

neighboring area

小田原城

お店から歩いて5分のところには、小田原城天守閣があります。
小田原城跡には、四季折々の草花が咲き乱れます。春から初夏にかけては、桜、御感の藤、つつじ、紫陽花。そして秋には菊、お堀端の紅葉も見事です。晩秋から早春も咲く梅の花は、その可憐な花びらで見る人の心を和ませてくれます。
深い歴史と文化、そして美しい自然を誇る小田原にいらっしゃいませんか?
皆様のお越しを心よりお待ちいたしております。

koudamon
幸田門
幸田門案内板
ビストロローヤル_ヒゴ弓出土

※画像をクリックするとPDFでご覧になれます

幸田門

この場所は、江戸時代から「幸田口(こうだぐち)」と呼ばれており、道路側に幸田門の碑が設置されています。武田信玄・上杉謙信(当時は長尾景虎)が、この地まで攻めてきました。

 

当店を建設する際、小田原市の発掘調査があり、15~16世紀頃、武田信玄軍か、または上杉謙信軍が使ったとみられる「弓胎弓(ひごゆみ)」が出土しました。現代の弓道の上級者も使っているという弓です。

 

<平成23年2月13日号 読売新聞に掲載されました>以下は記事内容です。

 

「小田原城 堀から戦国の弓 全国初 信玄軍使用の可能性も」

 小田原市栄町の小田原城跡の発掘調査で、15~16世紀のものとみられる漆塗りの弓が出土していたことがわかった。市によると、戦国時代の遺構から弓が出土したのは全国で初めて。

 見つかったのは現代の弓道上級者も使っている「弓胎弓(ひごゆみ)」と呼ばれるタイプで、竹や木の片を組み合わせた芯を用いて威力を増したと考えられる。専門家は「弓胎弓は文献上、江戸時代に使われていたことがわかっているが、戦国時代からすでに使われていたことを裏付ける貴重な発見」と指摘している。

 市教委文化財課によると、弓は、戦国時代に小田原城周辺につくられた深さ約2・4メートルの堀から出土した。飲食店の新築工事に伴う市の発掘調査(昨年1~3月)で、堀底に積もった粘土質に埋まっていた。

 弓は長さ約1メートルで、漆が塗られ、やや反った形状。両端が折れてなくなっていた。木製で腐ってしまう弓本体が見つかるのは珍しく、同課の担当者は「粘土質や漆塗りが劣化を防いだのだろう」と語る。

 「国際日本文化研究センター」(京都市)の近藤好和客員教授(日本武具史)によると、弓胎弓は木と竹を使った合わせ弓の一種。中世には木の表裏に竹を張り合わせた三枚打弓(さんまいうちゆみ)が一般的だったが、近世に弓胎弓に取って代わられたという。

 弓の歴史など文化史に詳しい同センターの准教授、山田奨治さんによると、江戸時代の1686年に刊行された山城国(現在の京都)の地誌書「雍(よう)州府志」に弓胎弓の作り方が書かれている。

 全日本弓道協会副会長の千葉知之さんは、「弓胎弓は焼きを入れた竹で芯を作るため、三枚打弓より耐久性が増し、矢を飛ばす威力が弱まる『へたり』が来るのも遅い。戦国時代、威力を増すために考案されたのではないか」と推測する。今でも、弓道初級者の学生らが比較的安いグラスファイバー製を使うのに対し、弓道四段以上の上級者は日本古来の弓具を好み、高級な弓胎弓を使う。

 今回、弓が出土したのは、江戸時代に「幸田口(こうだぐち)」と呼ばれた場所。戦国武将・上杉謙信(当時は長尾景虎)が1561年、小田原城の攻め口に したとの記録がある。またその後、武田信玄が今回の出土地点から約100メートル西にあった「蓮池」まで進撃したとの古文書も残されているため、市は「上杉謙信や武田信玄の小田原攻めで使われた可能性も否定できない」としている。


【弓胎弓】 細く加工した木や竹を3~7本重ねて芯(弓胎)とし、その両側に竹を張り合わせる。旧来品の三枚打弓より矢の飛距離や威力が増したと考えられる。弓は古代、木製だったが、しなりを得るために中世以降、竹を使うようになり、徐々に竹の割合が増えていった。弓は、甲冑(かっちゅう)や刀剣類に比べ、美術骨董(こっとう)品としての価値が低いため、研究が盛んではなく、弓の変遷は詳しく分かっていない。

bottom of page